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熊本地方裁判所 昭和61年(わ)535号 判決

主文

被告人を懲役一年二月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

右猶予の期間中被告人を保護観察に付する。

本件公訴事実中、安全運転義務違反の点については、被告人は無罪。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、

第一  法定の除外事由がないのに、昭和六一年五月六日ころ、熊本市御領町三一一番地一東ビル裏駐車場において、フェニルメチルアミノプロパンを含有する覚せい剤水溶液約〇・二五ccを自己の身体に注射し、もつて覚せい剤を使用し

第二  同月六日午前零時一五分ころ、熊本市竜田町弓削九州縦貫自動車道下り線一六九・五キロポスト付近の道路において普通乗用自動車を運転中、自車を左側路外に逸走させた上路側帯に転覆させた交通事故を起こしたのに事故発生の日時、場所等法律の定める事項を直ちにもよりの警察署の警察官に報告しなかつたものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は覚せい剤取締法四一条の二第一項三号、一九条に、同第二の所為は道路交通法一一九条一項一〇号、七二条一項後段に該当するから、判示第二の罪につき所定刑中懲役刑を選択するところ、以上は刑法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により重い判示第一の罪の刑に同法四七条但書の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役一年二月に処し、情状により同法二五条一項一号を適用してこの裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予し、なお同法二五条の二第一項前段によりその猶予の期間中被告人を保護観察に付する。

(一部無罪の理由)

本件公訴事実中安全運転義務違反の点(昭和六一年八月二八日付起訴状に記載された公訴事実第一)は、

「被告人は、昭和六一年五月六日午前零時一五分ころ、普通乗用自動車を運転し、熊本市竜田町弓削九州縦貫自動車道下り線一六九・五キロポスト付近の二車線道路右側追越し車線を植木インター方面から熊本インター方面に向かい疾走中、当時降雨が激しく前方の見通しが必ずしも十分でなく路面も滑走しやすい状態で、かつ、左側走行車線を時速約一〇〇キロメートルで走行中の先行車に急接近したのであるから、先行車の進路変更等の措置に対応できるよう適宜速度を調節して走行すべきであるのに、同速度で進行しても先行車の動静に対応できるものと軽信し、適宜速度を調節せず漫然高速度で進行したため、先行車が前方約五九・八メートルの地点で走行車線から自車進路上に車線変更したのに対応しようとして左転把の措置を講じて自車を左側路外に逸走させた上路側帯に転覆させて、もつて他人に危害を及ぼすような速度と方法で運転したものである。」

というのである。

しかしながら、右公訴事実中罪となるべき事実として示された被告人の行為は、「適宜速度を調節せず高速度で進行したこと」であるが、

(一) 道路交通法七〇条以外の同法各条に定められている運転者の義務違反の罪が成立する場合には、その行為が同時に右七〇条違反の罪の構成要件に該当しても、同条違反の罪は成立しない(最高二小決昭和四六・五・一三、刑集二五・三・五五六以下)のであるから、制限速度を超える速度で進行したこと自体は、同法にいわゆる速度違反の罪が成立する(ちなみに、本件公訴事実につき、予備的にせよ、故意又は過失による速度違反の訴因、罰条の追加変更の請求をしないことは、検察官の明言するところである。)ことは格別、これと法条競合の関係に立つ同法七〇条違反の罪を成立させない。

(二) 右公訴事実に示された具体的状況のもとで、被告人に適宜速度を調節すべき義務があるかどうかを検討するに、右公訴事実は、「(イ)当時降雨が激しく前方の見通しが必ずしも十分でなく路面も滑走しやすい状態で、かつ、(ロ)左側走行車線を時速約一〇〇キロメートルで走行中の先行車に急接近したこと」を前提事実とし、「(従つて)先行車の進路変更等の措置に対応できるよう適宜速度を調節して走行すべき」義務があるとするものである。

しかし、右(イ)の事実自体からは、被告人において他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転すべき同法七〇条の具体的な安全運転義務が発生するものではない。

また、右(ロ)の事実によつて、被告人に右のような義務が発生するかというに、先行車は、みだりにその進路を変更してはならず(同法二六条の二第一項)、かつ、進路を変更した場合にその変更した後の進路と同一の進路を後方から進行してくる車両等の速度又は方向を急に変更させることとなるおそれがあるときは、進路を変更してはならない(同法二六条の二第二項)のであるばかりか、同一方向に進行しながら進路を変えるときは、手、方向指示器又は燈火により合図をし、かつ、これらの行為が終わるまで当該合図を継続しなければならない(同法五三条一項。なお、その合図を行なう時期等については同条二項、同法施行令二一条参照。)のであるから、先行車において既に進路変更の合図をしていた等の特別の事情が公訴事実に明示されていない本件においては、右(ロ)の事実によつても、被告人において先行車の進路変更を予見し、その措置に対応できるような運転方法をとる義務が生ずるものでもない。

そうしてみると、本件公訴事実に示された事実関係のもとにおいては、道路交通法一一八条一項二号、二二条、又は一一八条二項の速度違反の罪が成立することは格別、同法七〇条違反の罪は成立しないものといわなければならない。

そこで、右公訴事実は罪とならないから、刑事訴訟法三三六条前段により被告人に対し無罪の言渡をする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官池田憲義)

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